ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

山田太一脚本・男たちの旅路「車輪の一歩」

車椅子の男性が奄美大島でタラップを這いつくばって昇らされたというニュースがありました。

「クレーマー」「講演料のための売名行為」と2ちゃんなどで叩かれており、私もこの男性の全てを応援する気にはなりませんが、しかし今回の騒ぎは日本が身障者にとって住みよい国となっているかどうかを考えるいい機会とは言えるかと。
やたら長生きする国になってしまった日本ですが、それゆえに誰しもが車椅子生活になる可能性があることを忘れてはならんでしょう。
 
車椅子で生活するということはどういうことか。
私にとって最初に考える機会となったのがNHK土曜ドラマ男たちの旅路」(’76~’82放送)です。
これの再放送を10代後半のときに見たのですが相当な衝撃を受けました。
山田太一脚本、鶴田浩二主演のドラマです。
 
戦時中に特攻経験のある吉岡(鶴田浩二)という50代のガードマンと若者たちの世代間ギャップとそれを埋めるための試行錯誤を描くドラマです。
鶴田浩二の若者への説経節が見どころですが、それがなんとも説得力があるんですなぁ。
というのも、鶴田浩二はこのドラマ収録時のリハーサル時点で既に完全にセリフが頭に入ってて、台本は一切持たなかったそうです。セリフが自分の言葉になっているので説得力もあるのでしょう。
 
男たちの旅路」のひとつの話がこの「車輪の一步」です。
 
その内容とドラマの印象的なセリフを一部アップします。若干、著作権違反かもしれませんが40年前のドラマなのでご容赦をw
このドラマは1979年放送ということで、当時としては相当先駆的な内容と言えるかと。
 

 
都内のガードマン会社の吉岡の部下たち(岸本加世子、清水健太郎)はひょんなことから6人の車椅子の青年たち(京本政樹斉藤洋介古尾谷雅人など)と知り合う。
青年たちはペンフレンドとして知り合った車椅子の17歳の女子(斉藤とも子 ←これがまたかわいい)がこれまで電車に乗ったことすらなく、月に数回母親に連れられて外に出る程度で家に引きこもった状態ということを文面で知り、彼女の家に直接向かい、彼女を外に連れ出そうと試みる。
外に出ることを怖がる彼女はそれを拒否するも、再度改めて彼女の家を訪ねると母親(赤木春恵)が出てきた。
母子家庭ゆえ、母親は平日昼間は働いているものの、この日は母親も自宅にいた。
 
母親は車椅子の青年たちに語る。
 
「やれるだけのことはやってるんですから、ほっといてください。
 悪いけど、みんな車椅子じゃないの。
 そんなのが4人で外に出てどこへ行けるというの?
 タクシーが乗せてくれる?
 一人で階段登れるの?
 きっぷは自分で買えるんですか?
 娘はね、階段をあげてもらいたかったら3日前に予約しろって国電に言われたのよ。
 
 ひとりで外に出れば1,2段の階段をあがるんだって誰かに助けてもらわなければならない。
 もうペコペコペコペコ頭を下げてお礼を行って迷惑がられて・・
 私、自分の娘にそんな思いさせたくないのよ。
 外を出る時は必ず私がついていきます。
 私が生きている間はあの子を厄介者にしたくないのよ」
 
それで娘さんが幸せなのかと京本政樹扮する青年が問うと、
 
「幸せなわけ無いでしょ。
 外へ出れば良いことある??
 娘は骨身にしみているのよ。
 もう何度も何度も嫌な思いをしているのよ。
 外に出ていいことはないって懲りてるのよ」
 
それでも青年たちはまた再度女の子に家を訪ね、その熱意に応えて女の子も車椅子で一緒に外に出ることに。
公園で楽しい時間を過ごすも、その後に悲劇が起こる。
車椅子の7人が電車の踏切内に差し掛かった時、女の子の車椅子の車輪が溝にハマってしまう。直後に警笛が鳴る踏切。
6人の青年が助けだそうとするも、皆車椅子のために焦ってばかりでうまくいかない。
そこへ健常者たちが数人やってきて、危機一髪全員助けてもらい難を逃れる。
 
助かるも意気消沈する7人。
その直後、女の子は失禁をしてしまう。
脊髄損傷の女の子は尿の抑制はコントロールできないのだった。
涙する女の子。6人の青年たちにとっても辛い出来事となってしまう。
 
______
 
ある日、6人のうちの一人である斉藤洋介演じる青年が一人で車椅子で遥々吉岡の住んでるアパートにやってくる。
数日前、吉岡は車椅子生活で送る人たちのことについて、自分の考えを述べようとしたところ、「説教臭いのはやめてくれ」と青年が話も聞かずに真っ向から拒否したのだった。
しかし、青年はその後もずっと吉岡が何を言おうとしていたのか気になって仕方なかった。
 
二階の部屋に住んでいる吉岡は青年を自分の背中におんぶして二階へ上げる。
青年は仮にここで吉岡と言い合いになったとしても、自分で階段を降りることもできず、結局吉岡に頼まなければならない・・そんなやるせない自分の生活を語った後、吉岡に自分の考えを述べてもらう。
 
「君たちはいろんな目にあってきた。
 私たちはそれを想像するだけだからね。
 見当はずれだったり甘かったりするかもしれない」
 
と前置きしたうえで、自分の考えをとつとつと述べる吉岡。
 
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「むしろ君たちに迷惑をかけることを恐れるなと言いたい気がしている。
 他人に迷惑をかけるなというルールを私は疑ったことがなかった。
 多くの親は子どもに最低の望みとして他人に迷惑をかけるなと言う。
 他人に迷惑をかけないというのは今の社会で一番疑われていないルールかもしれない。
 
 しかし、それが君たちを縛っている。
 一步外に出れば、電車に乗るのも、少ない石段を上がるのも誰かの世話にならなければならない。
 迷惑をかけまいとすれば外に出ることができなくなってしまう。
 だったら迷惑をかけてもいいんじゃないのか。
 ギリギリの迷惑をかけてもいいんじゃないのか。
 いや、かけなければいけないんじゃないか。
 
 君たちは普通の人が守ってるルールは自分たちも守るというかもしれないが、私はそうじゃないと思う。
 君たちが街へ出て電車に乗ったり階段を上がったり映画館に入ったりそんなこと自由に出来ないルールがおかしいんだ。
 イチイチ後ろめたい気持ちになったりするのがおかしい。
 私はむしろ堂々と胸を張って迷惑かける決心をすべきだと思った。
 
 君たちは特殊な条件を背負ってるんだ。
 差別するなと怒るかもしれないが足が不自由だということは『特別』なことだ。
 『特別な人生』だ。
 歩き回れる人間のルールを同じように守ろうとするのはおかしい。
 守ろうとするから歪むんだ。
 そうじゃないだろうか?」
 

 
このドラマでは本当にいろんなことを教えてくれます。
車椅子生活の人がアパートを借りようにもわずかな入り口の段差で住むことができない。段差がなくても不動産屋がなかなかアパートを紹介しようともしない。大家が身障者の一人暮らしを嫌うのだという。
タクシーですら介助者なしでは乗車拒否する場面がありますが、今の時代ではこんなことはもうないと思いたいところですが。
 
斉藤洋介扮する青年は親元で暮らしているんですが、身障者ゆえに女性とも付き合えないということで、ある日、母親に「トルコ(今でいうソープランド)に行きたい」といいます。
戸惑う母親に背後から自営業の父親は「3~4万でも持たせろ。チップはケチるなよ」と青年に目も合わせないまま口を挟みます。決して裕福そうでない一家ながら、「それぐらいどうにか俺がするやい」と語る父親。
 
4万5千円を握りしめて車椅子で歓楽街に出向くもどの店からも安全を保証できないと拒否され、結局は何もしないまま帰ってきます。
それを両親に言えない斉藤洋介は「よかったよ」と笑みを浮かべて報告するもその後溢れる涙を抑えられないのでした。
 
車椅子の人たちの外出を援助するボランティアの女性に聞いたことがあるんですが、例えば歩道で車椅子を押すのも結構な力がいるといいます。
というのも健常者はあまり気づかないでしょうが、歩道は(車道もそうですが)水はけのために、横方向に若干数パーミリの勾配をつけてあります。
この平坦でない勾配のために重心がずれて車椅子も軽やかに進まないらしいのです。
これはほんの一例で、健常者には分からない不便な場面が街の至る所にあるはずです。
 
このドラマでは上の吉岡の「迷惑をかける覚悟」という考えを押し付けてるわけでなく、この後も斉藤洋介が他の青年たちに吉岡の考えを伝えて、丁々発止の議論を交わす場面もあります。
なんせ79年のドラマなんで、ちょっと演出で古臭い部分もありますが、21世紀をとっくに迎えた現在でも通じるドラマだと思います。
 
吉岡はまた、車椅子の人がどんどん公の場に出て助けを求めることで、健常者もその対応に慣れるメリットを説きます。
健常者も偶に依頼されたりするから、逃げ出したり、過剰に緊張したりもする。
これが日常生活で当たり前の場面となると、健常者の対応もスムーズになると言います。
この考えについては至極真っ当だと思います。
 
さて、この「車輪の一步」の佳境です。
鶴田浩二赤木春恵、斉藤とも子、この三者のやり取りのシーンは目が離せません。
 

 
青年6人が議論した後、京本政樹扮する青年は吉岡の部下たちとともに喫茶店に女の子を誘い、それでも車椅子で外に出かけるべきだという考えを女の子の伝える。
女の子がその考えに傾こうとした時に喫茶店に激昂した母親が現れ、その場は敢え無くおしまいとなる。
 
部下がその場にいたということで、その一連のお詫びとして上司である吉岡はある夜、母親と女の子が住むアパートを訪ねる。
 
母親:なんて分からずやな母親っだろうって、娘を閉じ込めといて幸せになれるとでも思ってるのかってそう言ってるのわかりますよ。
吉岡:いいえ、親御さんの気持ちとしては・・
母親:分かるんですか?親の気持ちが分かるんですか?
 こういう子どもを持った親の気持ちなんて分かるわけありませんよ。
 外へ出さなればならないってそんなこと今まで何度も思いました。
 
 小学3年の時から車椅子使うようになって一人で外に出せば必ず泣いて帰ってきました。
 鬼じゃないかって思う人いっぱいいましたよ。
 縁日連れていけば『どうしてこの人混みに車椅子が来るんだ』とか。
 映画を見せてやりたいと思えば『もっと評判の悪い空いた時に来い』とか。
 中学に入れるんだってどれだけ学校から嫌味を言われたか分かりませんよ。
 
 私に言わせれば・・・世間は思いやりがなさすぎますよ。
 もう世間を信用していないんです。
 もう私一人でこの子を守って生きていこうって、そう決心させたのは世間なんですよ。
 一生、この子のためだけに生きていくつもりなんです。
 ・・ほっといてくださいよ。
吉岡:あなたはよくわかっていらっしゃる。
母親:何をですか?
吉岡:お嬢さんを外に出さなければならないことを・・
母親:そんなこと言ってないでしょう!
吉岡:お嬢さんはあなたと一緒に死ぬわけじゃない
 
黙って二人の会話を聞いていた女の子が口を挟む。
 
女の子:死ぬわ!一緒に死ぬわ!
吉岡:お母さんはそんなこと望んじゃいない。
女の子:私はそのつもり。母の一生をめちゃめちゃにしたのも私ですもの。
 お父さんが逃げ出したのも私がこんなのだからだもの。
吉岡:お母さんはそんなことを思ってはいない。
女の子:思ってるわ!
吉岡:思っちゃいない!!!
 
声荒げてしまう吉岡。再び静かに切り出す。
 
吉岡:お母さんは君が強くなることを願っている。
 一人でどこへでも行ける、強い人間になることを願っている。
女の子:そうじゃないって(母親が)言ったでしょう??
吉岡:かわいいからだよ。かわいいから、君を傷つけるのが怖いんだ。
 
母親は語る。
車椅子で生活している人でもいろいろあるということ。
自分の娘は脊髄損傷であり、足が悪いだけの人とはまた違う大変さがあるということ。
誰かが車椅子で外を出たから勇気があるとか、外に出ないから勇気がないとかそんな十把一絡げで簡単に言ってほしくないと。 
それを納得した上で吉岡はそれでも疑問を拭いきれず、女の子に直接語りかける。
 
吉岡:君は自分でどう思うの?外へ出ようという私は話にならない無理を言ってるか?
女の子:母を有難いと思ってるわ。逆らいたくないわ。
吉岡:逆らえとは言ってない。自分で判断しなければならないと言っているんだ。
 君はお母さんの言いなりになっている。
 言いなりになってればきっといつかお母さんを恨むようになる。 
 ・・・さ、みんな君を待っている。一緒に強くなろうと待っている。
 そこへ行くか行かないか、自分で決めなければいけないと言ってるんだ。
 自分の一生じゃないか。
 

 
「分かりゃしないわよ。親の気持ちなんて誰も分かりゃしないわよ」と赤木春恵が涙するところでこの緊迫のシーンは終わります。
 
「言いなりになれば恨むことになる」
これはこのドラマの中の親子だけではなく、誰しもがそう言えるんじゃないでしょうか。
誰かのいいなりになれば、言われたとおりのことをしてそれを後悔するような場面になったとき、真っ先に恨みを抱くのは自分を指示・命令していた相手に対してです。「あいつの言うことを聞いていなければ」とその人間のせいにしてしまう。
何につけても全て自分で決断し、人のせいにする退路を自分で断たなければなりません。
 
この「男たちの旅路」は未だに数年置きに再放送されております。
動画もネットなんかに転がっているので機会があれば身障者も健常者も是非見ていただきたい。
「何を抜かしとんねん」ってな批判もドラマに対してあるかもしれませんが、考える機会にはなると思います。
 
 
ドラマのラストシーン、女の子は吉岡、吉岡の部下たち、6人の青年たちと共に朝の通勤時の人でごったがえす駅前にいました。
女の子は駅の入口の階段付近まで一人で車椅子を転がし、小声で周囲に呼びかけます。少し離れた背後で見守る吉岡たち。
 
「・・だれか、あたしを上に上げてください」
雑踏に声はかき消され、女の子を無視して慌ただしく行き交う人たち。
女の子はめげずに声を何度もあげます。
「どなたかあたしを上に上げてください!どなたか・・・」
 
その声に気づいた通りかかった数人が足を止め、女の子の車椅子を担ぎ上げます。
吉岡たちの背後でその様子を見ながら泣き崩れる母親の姿に吉岡は気づいていたのでした。
 
ドラマのBGMはミッキー吉野ゴダイゴ)です。
 
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