ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

Love Of My Life~クイーンと日本の絆

しかし、亡くなってからこないに評価が上がるバンドも珍しい。

いや、本国である英国では昔からビートルズに次ぐかそれに匹敵するくらいの扱いでしたし、日本でも洋楽ファンの中では70年代までは人気だったんですが、私がクイーンに入れ込んでた80年代はクイーンの曲が日本のCMで使われるなど皆無でした。
特にアメリカではツェッペリンビートルズはあれだけ受け入れたのに、クイーンに対しては一貫して評価が低く、全米1位を獲得したのも結局アルバム1枚、シングル2曲だけです。

それが今や日本でもクイーンの曲がCMでバンバン使われるわ、あちこちの国のスタジアムでのスポーツイベントで「We Will Rock You」がかかるわ、アメリカでもトランプが選挙に「伝説のチャンピオン」を何回も使ってクイーンのメンバーからその都度クレームが出るわで、完全に世界的な伝説のバンドと化してしまいました。

それだけの存在になったクイーンも73年のデビュー当時、ツェッペリンの二番煎じみたいな感じでクソみそに母国の評論家に酷評されて、メンバーたちは相当落ち込んでいたといいます。
3枚目のアルバムを出して徐々に評価も上がってきたころの75年、彼らは日本へやってきます。

初来日時、羽田空港での日本人たちの歓迎ぶりにメンバーたちは驚きます。
1000人を超すファンが押し寄せてパニック状態、日本でのツアーではどこに行ってもそんな熱狂ぶりだったといいます。
それは東郷かおる子氏率いるミュージックライフ誌がクイーンを思いっきりプッシュしたことによるもので、その影響を受けたファンたちのクイーンへの熱狂ぶりが「アイドル扱い」に近かったためメンバーたちは戸惑う面もあったようです。
とはいえ、彼らは嘗て受けたことがないような歓迎っぷりの極東の国・日本に対して特別な思いを抱きはじめます。

初来日から帰国後、クイーンは金字塔的名作「A Night At The Operaオペラ座の夜)」をリリースして英国では尋常じゃない売り上げを伸ばし、シングルカットされた「ボヘミアン・ラプソディ」は9週連続1位、アメリカでもヒットします。(最高位9位)

不動の地位を築いた彼らは次のアルバムに「Teo Toriatte(手をとりあって)」という日本語のタイトルと一部日本語の歌詞を含んだ曲を収めました。
彼らからの日本へ対する感謝とリスペクトの現れです。

その後にも何度も来日を重ねるわけですが、85年、既にクイーンのバンドとしてのピークは過ぎた頃でしたが、彼らはニューアルバムのリリースとともに日本にやってきました。
来日時、チケットは完売していなかったといいます。

そのツアーの武道館でのライブの一曲が下の「Love of My Life」です。(音源のみ)
クイーンのライブパフォーマンスは派手で有名ですが、ピンスポットの中、フレディ・マーキュリー(Vo)とブライアン・メイ(Gt)が椅子に腰をかけて静かに歌いはじめます。

絶叫していた10代~20代初めの女の子や男の子たちもそのころには既に大人になり、彼らの演奏にちゃんと耳を傾け、フレディに促されて合唱しています。
本当に素晴らしいフレディとオーディエンスの合唱です。

これがクイーンの最後の来日となりました。


14. Love Of My Life (Queen-Live In Tokyo: 5/11/1985)

その次の年の86年夏を最後にクイーンはツアーを止めてしまいます。
当時はその憶測からメンバーの不仲説が音楽誌に頻繁にあがりますが、後になってわかることですがフレディがエイズに侵され体力がなかったことが原因です。

ツアーでの来日は85年が最後ですが、実はフレディは86年にお忍びで来日しています。
彼は英国の自宅に日本庭園を造るなどの本格的な親日家でして、骨とう品を買ったり日本の旅館に泊まったりするのが目的で来ていたのでした。
ミュージックライフ誌だったか忘れましたが楽しそうにインタビューを受けていたのが思い出されます。

91年に亡くなったフレディですが、間もなくそれから25年を迎えようとしています。

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