ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

南三陸・志津川病院と高野会館

2012年に南三陸に行った際に地元の方に聞いた話で私がそれまで知らなかった2つのうちのもうひとつは志津川病院の話です。

志津川病院のすぐ近くにあった高野会館についても触れておきます。
 
有名な防災対策庁舎よりも少し海側になり、海岸から400mほどの沿岸部に2つの建物はありました。(高野会館は2019年3月時点はまだ建物が残ってます)
 
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上の写真で手前の川みたいになっているところが海となります。
白い大きな建物が3つありますが、真ん中にあるのが「高野会館」で、右側がショッピングセンター「サンポート」、左側が当時の「公立志津川病院」です。さらに左側に防災庁舎が見えます。
 
地震発生時には高野会館で3階ホールで地元の老人クラブの歌や踊りの発表会が行われていて、約330人もの人が集まっていました。
志津川病院には当時109人の入院患者がおられたといいます。
 

 
志津川病院の建物は5階建ての西棟と4階建ての東棟があり、4階までの各階が渡り廊下でつながっている構造でした。
 
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撤去される前の旧志津川病院。右側が西館で建物の裏手が海になります。
 
以下は主に河北新報の記事を纏めたサイトを参照した内容です。(他のサイトも参照しています)
 
院内ルールで津波想定時は3階以上に避難することになっていたそうですが、109人の入院患者は3階と4階に病床があったのでそれはクリアしていたものの、病院関係者の機転で患者を上階へ搬送させることに。
入院患者の大半は自力歩行が困難な65歳以上の寝たきりで、当然エレベーターは止まってて使えず、1人の患者を運ぶのに2、3人は必要で容易ではありません。
近隣住民も病院に避難してきて院内は大混乱で階段も混雑していたといいます。
 
西棟5階は会議室のみでそこに対策本部を置いて、そこへ入院患者たちを避難させたり、患者のデータを持ち運んだりしていたところに午後15時半に第一波の津波が。
水は4階の天井を超え、5階の階段の降り口付近まできたといいます。
避難する時間もあまりなかったので5階まで引き上げれた患者は42人、ほとんどの患者は4階以下に残ったままでした。
 
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(2012/03/19)手前が西館。4階部分までの窓が壊れていました。3階以下は大破です。
 
つづいて午後16時頃に起こった強烈な引き波です。
4階からは電動ベッドごと入院患者が流されていきました。
すぐ近くの高野会館の屋上に避難していた多くの人々は自分たちの目の前をベッドが流れていき、そのベッドの上から助けを求めるように手を振る患者がいることが見えていてもどうすることもできません。
 
第一波が引いたあと、病院関係者や避難していた健常者の一部の方が4階に降りて、未だ息のあった患者数人を泥酔の中トリアージをし、5階へ引き上げたといいます。このときに第一波レベルの津波が来たら終わりゆえ本当に命がけの行為です。
 
翌12日に自衛隊の救助ヘリが到着し、すべての患者と病院関係者が退避できたのは翌日13日。
雪が舞う気温の中のずぶ濡れ状態、しかも医療器具どころか飲食もまともにできない状態だったゆえ、5階に避難できた患者のうち7人が亡くなったといいます。
志津川病院では入院患者の72人が死亡・行方不明、そして忘れてはならないのが3人の看護師・看護助手の方が犠牲になられたことです。

津波のことも想定し、それに迅速に対応された病院関係者の皆さんですが、第一波の津波後に4階で救助作業されてた医師の方は「最上階には少なくとも、酸素、点滴(救急カート)、電源、水、食料を置いておくべき。このことを強く訴えたいです。特に海に近い施設では」と語っておられます。(日経メディカルより



地震発生時、高野会館では老人クラブの発表会の関係で社会福祉協議会の職員の方もおられ、直後に防災庁舎に行って大勢の人が会館に避難していることを伝えるも、庁舎内はパニック状態で聞いてもらえる状況になかったといいます。
※参照:産経新聞
 
結局、津波警報が出ているなか、また海側の方面へ移動して高野会館へ。
これも命がけの行為です。
 
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(2016/03/27)
 
15時5分頃に職員の方が会館に戻るとすでに皆さんは屋上への避難をはじめていたそうです。会館の関係者が海面の水位が異常に下がっていることに気づき、大津波を予測してのことでした。
結局、会館におられた98歳のお年寄りや4歳くらいの子どもを含む327人全員とワンちゃん2匹が無事助かったのですが、社協・会館の関係者の皆さんの的確な対応がなければ南三陸町で更なる悲劇が生まれていたことは間違いないかと。
 

 
多くの命を救った高野会館の建物は前述のとおり現在も残っておりまして、これを所有するのは阿部長商店(気仙沼市)という民間企業。私も南三陸へ行った際にお世話になっている南三陸ホテル観洋などを経営している地元では有名な企業ですが、この建物を阿部長商店は「震災遺構」として残そうと町に働きかけていますが、現在のところは却下されています。
今後も震災遺構として認めてもらうよう働きかけていくようです。

南三陸町唯一の公立病院だった志津川病院は「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」として15年12月に高台にて開業しております。
この新病院の建設費用を支えたのは台湾から寄せられた義援金でして、建設費約56億円のうち、約4割に当たる22億2000万円を中華民国紅十字会総会(台湾赤十字)が支出されていることを付記しておきます。
※ハフポストより
 
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(2012/03/19 16:07)