南三陸防災庁舎・避難を呼びかけつづけた職員たち
東日本大震災関連の報道は震災直後から結構チェックしていたつもりだったのですが、震災から1年後に南三陸町に行った際、地元の方の話で私が当時知らなかったことが2点あったのでそれについて書いておきます。
今回はそのうちのひとつを。
南三陸の防災対策庁舎で防災行政無線で避難を呼びかけ続けた遠藤未希さん(当時24歳)のことは報道で誰しもご存知でしょうが、その上司である三浦毅さん(当時51歳)のことはあまり知られていないかもしれません。私は旧防災庁舎前で地元の方からお話を聞いて初めて知りました。
危機管理課で遠藤さんの上司だった三浦さんは地震直後、遠藤さんと交代で無線で避難を呼びかけていたそうです。お二人で約30分、計60回を超える呼びかけをされていたといいます。
迫りくる津波に危険を感じた他の職員は三浦さんの袖を引っ張り、屋上へ上がるように促さすも「あと1回だけ」と呼びかけを続けようとしたといいます。
その直後に津波に襲われ、その後は行方が分かっておりません。
※先ほどネットで検索しましたが2016年3月時点でも行方不明のままです
遠藤さんを含めた職員など約30人が屋上へ避難されたとのことですが、海岸から約500m離れた防災庁舎(高さ12m)を最大で15.5mの津波が襲いました。
2011年3月11日15時34分、防災庁舎屋上。職員の加藤信男さん撮影
津波は上の写真撮影時よりも更に2mほど水位があがったといいます。
防災庁舎の階段。
津波はすぐに水位が下がったそうですが、屋上に残ってたのは10人だけでした。
防災庁舎では43人もの方が亡くなっているため、この防災庁舎を「震災遺構」とすることには遺族から強い反発もあります。
一旦町長が解体することを決断した後に、国と県の要請をきっかけに県有化として20年間残すことになったという経緯もあり(※後述)、一部の遺族の方の反発や「なぜ防災庁舎ばっかり」というご発言は無理がないかもしれません。
確かに殆どの被災地の構造物は撤去されており、見るだけでも腹立たしい防災庁舎をなぜ特別に残すのかとおっしゃるのは理解できますが、逆にこの防災庁舎以外に本当にあの震災を象徴するものが残されていないのも事実です。
例えば、被災地に行っても手を合わせる場所がないのです。
「よそ者が手を合わせるために残すのか?」と思われるかもしれませんが、遺族・遺族でないに関わらず被災された方も手を合わせる場所というのは必要ではないでしょうか?
先程にも触れた震災時に副町長だった遠藤健治さんは16年のインタビューで「生かされた10人の1人としては、防災庁舎がこうあるべきというのは言える立場ではないんです」と前置きしつつ、こう語られています。
「県有化されたことに、個人的にはホッとしています。防災庁舎は『語る・言わずの遺構』になっています。防災庁舎に手を合わせる人は、防災庁舎の犠牲者だけを思っているわけではありません。防災庁舎を通して、東日本大震災の被災者全員に向けて手を合わせているように、私は思うんです」
多くの方が命を落とした建物かもしれませんが、一方で三浦毅さんや遠藤未希さんをはじめ、ここにいた今は亡き職員の方々の懸命の活動によって多くの町民の命が救われたその象徴の遺構とも言えるのではないでしょうか。
旧防災対策庁舎周辺は震災復興祈念公園として整備される予定で、2031年3月10日までに保存の是非を最終判断することになっています。
(2012/03/19)