南三陸・消防署を襲った想定外の津波
南三陸町の浸水地域も木造の建物や植林などは津波にさらわれたので被災から1年後ですら被災前の面影は全く残っていませんでしたが、現在はそのコンクリート製の建物も殆どが撤去されて道路も宅地も造成されたので、地元の方ですら自分が今立っているところが被災前のどこなのかサッパリだろうと思われます。
それは当時まだ撤去されていなかった県合同庁舎の建物に津波の高さが記されていたのを見たときです。
上の貼られた青い印が津波の高さです。
3階の上の高さまで津波が来たということで、当時この建物の中にいたとしたら絶望的です。
驚くのはこの建物があった場所です。海から直線距離で1.5キロの地点になります。
確かに標高は5~6mとそれほど高くはない地点ですが、1.5キロも離れているともちろん海なんかは目視できず、あまり沿岸という印象もありません。
以下は河北新報の紙面を纏めた以下のサイトから紙面を引用します。
そして町役場の災害対策本部で指揮をしていた小野寺庄一郎副署長(享年57歳で殉職)から「津波が水門を突破した」との無線連絡が。
監視モニターにその映像が映し出されるもすぐに映像が途絶えます。
南三陸署は国道に面していたのですが、及川さんは署を出て国道を海岸方面へ向かう車に高台へ避難するよう誘導します。
そうしている間に水の塊が署のほうへ押し寄せ、及川さんは司令室に戻るも上の写真のように署は2階建てです。
佐藤武敏司令隊長(享年56歳で殉職)を含め署にはその時5人がおられたそうですが、机の上に上がって押し寄せる水にただ無言で立ち尽くすのみだったらしく、お互いの目を見つめ合ったのが最後だったといいます。
15時半頃、濁流に揉まれるも及川さんはタイヤに捕まり署から750m北西(山手側)へ押し流されます。
その後に強烈な引き潮で、一気に海側へと流されます。
おおよそですが、及川さんは以下のように約10キロも流されたようです。
ここでは端折りますが、雪がちらつく冷たい海を及川さんは3時間漂い、18時半頃に戸倉地区の海岸までたどり着くも体が動かない。地元の人に「たすけてけろーっ」と叫んだあとに意識を失ったといいます。
地元の中学生たちによる必死の介抱によって助けられたそうです。
津波というのは海岸から2~3キロ程度の標高のないところでは殆ど威力が衰えない、そして5キロ程度でも川を遡上してくる・・それを認識させられた今は無き合同庁舎の青い印でした。