ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

広島平和記念館と焦土に咲いたカンナの花

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(2014/09/06)

一年前に広島に行った際は、当然ながら広島平和記念館(または原爆資料館とも呼ばれる)へも行ってきました。
今更ながらそれについて書いておきます。

小学生時代から一度は行かないといけないと思いつつも、結局はそれから四半世紀以上も広島へは行けずじまいでした。
正直、怖いので敷居が高かったというのも理由のひとつにあります。

野球解説者で被爆者でもある張本勲氏は約10年前までこの資料館に入れなかったといいます。入ろうとすると、当時の苦しみや怒りなどがこみ上げてきて手に汗して震えが止まらず、どうしても無理だったそうです。
その旨を紙上で語ったところ、小学生の女の子から「私は怖くても長崎の原爆資料館に行った」旨の手紙が届き、その文章によって記念館に行くことを促されて2006年にやっと初めて行けたそうです。

私は勿論そこまでの感情はありませんが、どうも小学校の体育館で観た「はだりのゲン」の実写版の映画がトラウマになってて行きづらいものがありました。

さて、記念館に行って最初に驚いたのが入館料です。
たったの50円でした。
広島の方々の儲け度外視で「多くの人々に見てもらいたい」という意志をまず最初に感じました。
2013年から記念館は改修工事中なのですが、それが完了すると200円になるそうですがそれでも全然安いと思います。

館内の写真撮影も自由です。


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原爆のきのこ雲の写真です。
当時、これだけの写真が撮られるほど一般にも少なからずカメラが普及していたことに驚きます。

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原爆投下直後の8月6日11時に撮影された写真です。
爆心地から2.3kmの御幸橋で撮られたもので、多くの負傷された方々が川を渡る橋へ爆心地から逃げてきたそうです。

この写真は撮影時に数枚撮られているのですが、先日放送されたNHKスペシャルでこれらの写真を分析して当時の御幸橋付近の様子をCG化しておりました。CGにするにあたり、この写真に写ってる現在もご存命の方々にインタビューもしてました。

上の写真は白黒なのでよくわからないのですが、写真を詳しく分析すると、女生徒が負っているやけどの様子などから、専門家の医師に言わせると「人間が感じる痛みとして最大」の苦痛だったであろうと語っていました。

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当時の様子を表した「被曝再現人形」です。
爆心地から1.5~2kmあたりの様子を再現しているとのことです。

この展示物の撤去問題がマスコミで騒がれてましたが、広島市民や全国のアンケートでも撤去反対が半数以上のようですが、資料館側は撤去を決定しております。


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禎子さんの折り鶴の実物です。
この折り鶴は禎子さんの葬儀の時に配られたものだそうです。

資料館では禎子さんに関する展示物やパネルに大きくスペースを割いてました。
やはり原爆投下から10年も経ってから白血病で亡くなった小さな女の子の死は広島市民にとってとてつもなく大きなことだったのでしょう。

資料館には有名な焼け焦げてグニャグニャになった弁当箱や血に染まったボロボロの女生徒の衣類など多くのものが展示されてましたが、さすがにそれらを撮影することはできませんでした。
結局資料館内で撮った写真はこの記事でアップしている4枚だけです。

但し、資料館には私が当初から懸念していた目を背けたくなるような恐ろしい写真や展示物というのは殆どありませんでした。
実際にそれらの恐ろしい写真などを入館者に見せて現実を知らしめるのもいいのかもしれませんが、私は今の資料館の展示物でも十分に原爆の恐ろしさが伝わると思いますし、非常にバランスがとれた展示内容だと思いました。

入館者には真剣な眼差しの外国人が多いことも救いでした。
日本人として是非とも死ぬまでには一度は行ってもらいたい場所です。

次が4枚目の写真です

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写真は爆心地から820mの基町というところで撮影されたものです。

原爆が投下された直後の広島は見渡す限り一面灰色か茶色という感じで緑など一切なく、当時は「75年間は草木も生えない」と言われていたそうです。
それが焦土と化してからわずか1ヶ月半後、瓦礫の中でカンナの花が咲いたというのが上の写真です。(撮影時期は45年9月18日~25日)

草木のみならず、広島市街の目覚ましい復興については改めて言わずもがなです。