消えゆく「震災遺構」・南三陸町防災庁舎解体の是非
上の写真は既に解体され跡形もなくなった気仙沼市の「第十八共徳丸」です。
気仙沼市としてはこの大型漁船を残そうと試みましたが、多数の住民の意志に沿い、結局は船の所有者が解体を決断しました。
幹線道路沿いにあったこの大きな船のインパクトは相当なもので、「震災遺構」として全国でも多くが知るものでありましたが、やはりこの船がいつまでも街なかにあっては震災をひきずってしまい「復興」の妨げになるということでしょうか。
個人的はこの船の維持は確かに厳しかったように思います。
この周辺において今後どのような復興計画があるのか知りませんが、あまりに街のど真ん中にあるというのと、この船が海からこの街なかまで流されている間に多くの家屋や人を被災させた可能性も高い。
周辺の飲食店などは客が激減したといいます。
被災地の建物の解体費用には補助金が出ていたのですが、それには期限があったため、それまでに次々と「震災遺構」が解体されました。
職員の方が津波が来る直前まで防災無線で町民に避難を呼びかけ続けたことで有名な庁舎ですが、30名ほどの職員がこの庁舎の屋上に避難したものの、屋上の高さから更に2mほどを超える津波が押し寄せ、多くが亡くなりました。
よって遺族の方の「防災庁舎を見るのは辛いので解体してほしい」という意向で、私が被災地に行った2年前の3月の時点ではその月末にも解体されるとのことでした。
・・が、それが未だに解体されずに残ってるのはやはり津波の被害において最も有名な「震災遺構」だからでしょうか。
現在も解体の方向で決まっているらしいのですが、私としてはこの防災庁舎だけは残すべきと考えます。
これを残すことは後世への教訓として非常に意味があり、こう述べると遺族の方には気分を害されるとは思いますが、「庁舎を目にするのは辛い」というのは「一部の遺族」の「一時的な感情」かもしれないということです。
この限られた人たちの感情に沿うかたちで解体された「遺構」は二度と元には戻せません。もっと深く時間をかけて吟味すべきと思われます。
では、「一時的な感情」と言えるのはなぜか。
「震災遺構」についてはNHKスペシャルを含め、いろんな番組が取り上げていまいたが、一番印象に残っているのが広島の原爆で家族を亡くした遺族の方へのインタビューです。
今や高齢となった遺族の女性は戦後直後、広島ドームを目にするのが本当に辛かったといいます。その彼女も数十年の時を経て、広島ドームを残したことは良かったといっておられました。
現在、世界遺産である広島ドームがもし戦後解体されていれば、広島原爆を象徴する遺構がなくなり、人々へ原爆の恐ろしさを伝える発信力が弱まっていたであろうことは疑う余地もありません。
世界共通語である「TSUNAMI」は日本人こそその恐ろしさを知っていなれけばならなかったはずですが、結局は3.11が来るまで三陸沿岸の人々でさえその多くが実態を理解していなかったわけで、それが被害を拡大させたといってもいいでしょう。
映像や写真で見るだけでは伝わらないものがあると思います。
防災庁舎は東北被災地を代表する「墓標」でもあるということも遺族の方には理解していただきたいのです。
(2012/03/19)