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一応、風景写真がメインです

青山繁晴氏が語る「福島第一原発元所長:吉田氏の無念」

独立総合研究所の青山繁晴氏が福島第一原発吉田昌郎所長(当時)に会ったのは2011年4月22日。
場所は最悪の事態は辛うじて脱しつつあったものの未だ混乱のさなかであった福島第一原発の免震重要棟内

青山氏が知人を介して吉田所長に原発内の取材を交渉したところ、吉田氏から直ぐに快諾の返事が入ったという。
青山氏はハンディカメラを片手に福島第一に乗り込んだものの、当然ながら撮影や取材は吉田氏から制限をかけられることを想定していた。しかし、彼は「何もかも全部撮って下さい」と躊躇なく発したという。
青山氏をマスコミ等で以前から知っていた吉田氏はその青山氏の気質から、危険を顧みずに放射線量の高いところに突進してしまうことだけを危惧していたらしいが、基本的に取材の制限はかけなかったという。

吉田氏は大阪育ち、身長は180cmほどもあり、官僚組織みたいな東電に似合わず、非常に豪快な男だったらしく、「本店の言うことを全然聞かず、扱いにくい」と、震災前に青山氏は東電幹部から愚痴を耳にする。
それを聞いた青山氏は「そんな人が所長という役職に就けているんだからよっぽど部下からの信頼が厚いということなんだろう」と彼に興味をもち、そう東電幹部に返答したのだが、その会話を後に吉田所長自身が文書で手にすることとなる。
そして、吉田氏と青山氏は一度会おうということになったらしいが、ほどなくして東日本大震災が起こる。結局は震災後、大混乱の福島第一原発の免震重要棟にて初めて会うに至った。

吉田氏は青山氏の訪問を本当に大歓迎していたらしい。
その理由というのが、この福島第一の大惨事の異常事態において、原子力委員会なんかをはじめ色々な何とか委員会、その他東大含めた学者連中含め、事故後、誰ひとり専門家で福島第一にやって来たものはいなかったという。オファー自体がゼロだったのだ。それは東電幹部も含める。
安全な東京からギャーギャーと口出ししてくるだけで、誰も現場を見ようとしないことに、吉田氏は当時憤りを感じていたと思われるが、そこへ初めてオファーしてきたのが青山氏だったのだ。

当時の免震重要棟には何百人もの人々が寝泊まりして作業していた。青山氏が確認した限りでは19歳から67歳の方が作業をしていたという。
その最高齢の67歳のある男性は既に定年の身でありながら、「吉田さんががんばっているなら、(私も)日本のためにがんばりたい」と青山氏に語った。
一番若い19歳の男性は自分ば暴力団関係者だということを明かした上で、「俺は高校を中退してずっと曲がった人生やってきた。俺は組の手配でこちらにやってきたが、来てから人生変わった。吉田さんやあのオヤジ、このオヤジ、自分のためにやってる奴は一人もいないんですよ。みんな人のためにやっている。チェルノブイリと違うんだということを証明しようとして皆一生懸命やってるんですよ。俺、人生変わったんですよ」と語ったという。

青山氏が取材した吉田所長のメッセージや、福島第一の惨状の映像は4月27日から関西テレビアンカー」はじめ、様々な番組で流されたものの、その前後、東電および民主党政権の政府関係者(副大臣)から青山氏に圧力がかかる。
映像を流させないように当時の政権は警察にまで手を回したという。
(但し、所長である吉田氏の許可を得て構内に入っているので犯罪には到底あたらず、警察側は捜査を拒否)

本当にこの日本って国も中国のことを笑える立場にないくらいひどい。
福島第一の様子を全国民、全世界に衆知させることに何の問題があるのか全く理解に苦しむ。原発に入ろうとしなかったマスコミも同じこと。
吉田所長にとっては拒む理由などなかった。オファーそのものがなかったのであり、東電から青山氏に圧力があったことからもわかるように、原発内の立ち入りは吉田所長の独断だったことがわかる。彼は何も隠し立てようとはしてなかったのだ。

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青山氏に圧力をかけた当時民主党所属の副大臣。後に、復興相就任。

青山氏は今日の「アンカー」にて、「ガン仲間」と呼び合っていた吉田元所長のことを時に声をつまらせながら語っていたものの、友人とはいえ、なんでもかんでも吉田氏を褒め称えることはしていない。

報道などでご存知のとおり、吉田氏は原子力設備管理部長という立場だった08年、15.7mの津波が来る可能性があるという試算がありながら、津波対策を先送りにしている。
これについては当然ながら責任と無念さを感じていただろうとしつつ、もう一点、吉田氏が青山氏と共に懸念していたのが福島第一の現在の「防潮堤」。

福島第一は現在、冷却装置を含めいろいろなものが「仮設」のままであることが問題になっているが、防潮堤もそのひとつ。
再度、東北沿岸部で大きな余震などが発生し、津波がふたたび押し寄せた場合、福島第一は再度緊急事態に陥り、放射性物質を大量に拡散させてしまう可能性は否定できない。しかし、これが仮設のまま全く何も進んでいないという。
これについては吉田氏は非常に懸念されていた。青山氏も今後政府などに積極的に働きかけることで防潮堤建設の実現を目指す所存とのこと。

そして去年の2月、吉田氏は食道がんの手術を受けることになる。その直前に吉田氏は「万が一」のことを考え、以下のような感謝のメールを青山氏へ送っている。(一部抜粋)

「あの戦場のような最前線に青山様自らきていただきテレビで状況を報告して頂いたことが現場の環境の改善や国民の皆さんの意識の変化につながったことはいうまでもありません。
そしてテレビで発信して頂いたお言葉が、今の平和ボケした学者や評論家にカツを入れて頂いたものと思っております。
(略)
私も必ず病気から復帰し、平和ボケしたそしてすべきことがなかなか進まないこの國に何らかの貢献ができないかと考えております。」

吉田氏は事故を未然に防ぐことが可能な立場の一人であったのは確かであるものの、事故後、彼の陣頭指揮によって日本が更なる大惨事になることを防いだのも疑いようもない事実。
積極的に情報を公開しようとしていた吉田氏、当時の原発のようすを一番知り尽くしていながら、それを語る時間的余裕のないまま亡くなってしまったのは本人はもちろんのこと、我々にとっても非常に大きな損失で残念です。

心からご冥福をお祈りいたします。


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2011年4月27日放送のアンカーより。(ネットより画像を拝借)