ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

陸前高田市(3)~一本の松

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この陸前高田市については今回の旅では本当に悔やまれます。
途中から単に「気仙沼行きのバスに乗るため、時間までに停留所に着くこと」が目的となってしまい、陸前高田に着いて早々に負傷した足を引きずりながら、ひたすら市街地を駆け抜けただけで殆ど何も見ておらず(写真も機械的に数枚撮ったのみで殆ど撮影していない)、事前にしようと思ってたことが何一つできませんでした。
何のためにこの被災地に来たのかわけがわからん状態。
自分がやってることが最低なのは当時も自覚していたものの、そのバスに乗らなければその後ここで野宿せないけないのか、どうなってしまうのかサッパリ予測がつかんので、ただ走るしかなかった次第です。
 
陸前高田の沿岸に残った「一本の松」というのも見たかったのですが、この時点で既に諦めてました。
 
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(15:04)大船渡線陸前高田駅。ホームが残ってるのでここはまだ「駅」と判別できますが、このホームすら残ってない駅が被災地ではどれだけあることか・・。
 
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建物と建物の間に尖った屋根の白い建物が見えますが、ここが「陸前高田市民体育館」です。
私がこの陸前高田で献花しようと思ってたところなんですが、結局これだけ目の前にあるにも関わらず、そこに寄って献花する時間すらありませんでした。(献花しようと思って持っていた花は気仙川に流した)
 
震災発生直後の津波警報の発令中、この周辺の住民の方の多くは避難場所に指定されていた市民体育館に避難されました。
避難といっても体育館内の観客席の一番高いところでせいぜい10mほどだったらしいのですが、体育館に押し寄せた海水は高さ35mの天井まであと40cmのところまで浸水したそうです。
その時に天井に掴まるなどして助かった方はおられるものの、約80~100名の避難者の中で助かったのはわずか3名。海岸から1km以内の各避難所では同じようにして犠牲になられた方が多数とのことです。
 陸前高田市の死者・行方不明者:1,787人(5/2現在),浸水区域における犠牲者率:約11.1%)
 
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(15:22)バスの時間ギリギリにようやく海岸沿いの幹線道路に到着。
改めて振り返って市街地を望む。
本当に建物の基礎すら殆どないような更地の状態で、ポツンポツンと鉄筋コンクリート製の建物が残っているのみ。ここが元々どういう街だったのか実際に行ってみても全く想像がつかない。
阪神大震災の当時の被災地とは同じ被災地でも全く異なります。少なくとも阪神の場合はその街のかつての様子が想像できたし、人の生活があったことも誰が見ても分かった。
 
そこでGoogle Earthで沿岸部の被災地を見てもらいたい。過去の様子が時系列で見えます。
震災以前の陸前高田の沿岸部一帯は民家が多く、緑も多い街だったことがわかります。
(写真の右下をクリックすることで拡大)
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バス停に向かっていると、海岸沿いのがれきの山から、あの「一本の松」らしきものが見えてきた。
 
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これが陸前高田の沿岸にあった7万本の松林のうち、たった1本生き残ったと言われる松です。
この松を保存しようといろいろ調査もされたようですが、維持することは不可能とのことで、いずれ朽ちていってしまうことになります。
遠くからではあるものの、この松を目にすることができて良かったです。
 
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(15:29)バス停がある目的地、「気仙中」。ギリギリ間に合いました。
結局、バスは大幅に遅れて、汗だくだった私の汗が寒風で冷やされ、疲労困憊と寒さで最悪の状態に。
 
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(15:53)車窓より。
悔いが残る短い滞在時間の陸前高田をあとにして、次は気仙沼へ。