原発危機 事態が深刻化した経緯(2)~震災2日目午前
2011年3月12日
午前0時過ぎ 東電がベントを決断
世界でも前例がない決断に東電の社内にも衝撃が走る
当時の東電本店社員の会話:
「本当にそんなことしちゃうの?そんな簡単なこといっていいのか?」
「社員にとってベントは最終手段。信じられない」
東電本店社員: ベントをやると聞いたとき、この会社終わったなと思った
福島第一の技術者: 相当危険な状態ということは原発の仕事をしていてわかっていたので、
その話を聞いたときはたたごとでないと思った
1時30分 政府が東電にベントを了承
総理大臣補佐官 寺田学: 総理は一刻も早くベントをしろと指示した。ベントをしたらどうなるとか手段とか
そういう議論はなかった。兎に角ベントをしろと
1時48分 消防車からの注水を検討開始
消火栓からは水が噴出、別の水源を探す。消防車を1号機近くに配置するにも、移動が難航。
ゲートも停電で開かない場所があり、道路の通行可能な場所のゲートのカギを壊し、1号機を目指す。
防火水槽へ水を注入するたび、消防車のホースを抜かねばならず、注水はたびたび中断
3時05分 海江田大臣と東電が共同会見。ベント実施の決断を明らかにする
当時の会見:
海江田 「発電所から3キロ以内の退避、10キロ以内での屋内待機により住民の安全は保たれている」
東電本店常務 小森 「場合によっては放射性物質は出るかもしれない。風向きは今、海側と聞いている のであまり影響はないかもしれないが、実質的にあまりご心配をかけないようにと考えつつ判断した」
但し、会見後もベントは一向に行われず。
非常時におけるベントは電動で行うことを想定しており、手動の方法はマニュアルになく、議論がつづく。
現場で急遽設計図を引っ張り出し、一からの検討が行われた。
東電本店常務 小森: 通常は手動でするようなバルブでないため、躊躇していたのではなく、
やってはいたのだけれどもプレッシャーの中で苦労していたのだと思う
3時45分頃 1号機の原子炉建屋の二重扉を開いたところ、白いもやが見え、閉鎖
4時頃に東電が地元の自治体に送ったFAXが以下。
記している ※28mSVは一般人の年間許容量の28倍
住民の避難をめぐり、原発内の現場と本店とで朝まで議論が行われた。
この頃、現場の状況を殆ど把握していない政府はベントの指示をしても実施されないことに対し
東電への不審を抱く
4時半頃 余震による津波の可能性から、現場操作の禁止を指示。
線量がさらに上昇
出発直前の菅総理の会見: 東電の責任者ときちっと話をして、状況を把握したい
官邸を飛び立つヘリ
相当強い口調で斑目委員長に何度も質問していたという。
菅: ベントが遅れたらどうなるんだ
斑目: 化学反応がおきて水素が発生します。それでも大丈夫です。水素は格納容器に逃げます
菅: その水素は格納容器で爆発しないのか
斑目: 大丈夫です。格納容器は窒素で満たされているので爆発はしません
但し、実際はこの時点で既に1号機においてはメルトダウン後であるため、格納容器から
漏れた水素が建屋内に充満しはじめていたことになる
6時50分 政府が東電に対して直ちにベントにとりかかるよう法律に基づいて命令
8時03分 吉田所長から「1号機のベントは9時を目標」と指示
8時27分 大熊町の一部住民が避難できていないとの情報が届き、
避難終了後にベントをすることで調整
9時03分 周辺住民の避難完了を確認
9時04分 1号機のベント作業開始
ようやく建屋内に作業員が入る。原子炉内部の放射線量は相当高くなっており、
現場にいれる時間は20分以内。6人が交代で作業にあたる。
浴びた放射線量は通常の作業環境ではありえない最大106mSV
10時17分 1号機にて3回、中央制御室で弁の開放操作をするが、
開いたか確認できず
11時36分 3号機の冷却システムRCIC(原子炉隔離時冷却系)停止
所内の消防車は1号機の海水注入に使用していたため、応援を要請するも到着せず。
バッテリー不足で逃がし安全弁を動かせず。社員の通勤用自動車のバッテリーを外して集め、
中央制御室に運んで計器盤につなぎ込んだ