原発危機 事態が深刻化した経緯(3)~震災2日目午後
2011年3月12日
12時30分頃 弁開放に使う空気圧縮機「仮設コンプレッサー」を協力企業で発見
1号機の原子炉建屋付近に設置
12時35分 3号機の冷却システムHPCI(高圧注入系)が自動起動
1時間前にRCIC(原子炉隔離時冷却系)が自動停止したことによる
14時00分 コンプレッサー起動。1号機の格納容器の圧力が低下
14時30分 1号機のベント実施を確認
1号機の排気塔から白い煙が立ち上がる。政府のベント決断から既に13時間が経過
14時54分 吉田所長が1号機の海水注入の準備を指示
15時36分 1号機が水素爆発
大量の放射性物質を周辺に撒き散らす未曾有の事態に至る
現場退避、海水注入のホースが損傷。がれきを片付け、ホースを探して再敷設。
また、 2号機の現場においても飛散物でケーブルが損傷し、高圧電源車が自動停止。
作業を中断し、全員が免震重要棟へ退避。
東電本店常務 小森: かなり不意をくらったというかたちになった。
会社としても原子力に携わる技術屋としても痛恨の極み
安全委員会委員長 班目: 建物が水素爆発するかもしれないとは思わなかった。
後から考えればありえることだが、そういうところに思いが至らなかったのは申し訳ないが
私の実力のなさかもしれない。
ただ、あの時点で水素爆発を予測できた人はそんなにいるとは思えない
海江田大臣: こちらの意思を現場や本店にダイレクトに伝えることができなかったのは
最初の動きの中で大変残念。諸般の事情があっただろうがもう少し早くできなったのかなという
思いはある。
16時頃 官邸が警察から「1号機建屋爆発」の一報を受ける
爆発から30分後に確認作業に入る。
当時の官邸での会話
政府高官: 爆発は本当なのか?
東電幹部: 見間違いじゃないですか?確認します
官邸が爆発を確認し、明らかにしたのは爆発から2時間後。
保安院の内部資料によると、官邸により「発表は官邸に連絡してから発表するように」と通告され、
情報は厳しく管理されていた
当時の保安院広報班とマスコミとの押し問答のようす
官房長官がやるべきだという声が政府の責任としてあったのではないかと思う
生後7ヶ月の赤ちゃんがいるその女性は6箇所の避難所を転々とした後、現在千葉県に避難している。
爆発が起きた時、親子は近くの小学校にいた。
避難中の女性: 哺乳瓶を洗うための水をもらうために外で並んでいた。そのときに背中でボン!と
爆発がした。主人が来て「原発が爆発したから逃げろ」と言われ車で逃げた。
逃げる際に知らせれたのは口にハンカチをあてることだけ。防災無線の指示に従い北西に向かう。
国道は渋滞し、普段は30分で移動できる距離に4時間半もかかったという。
当時の避難のようす。
当時、国は放射性物質がどの方向に拡散するのか予測していた。
しかし、この図は一切公表されず、この親子は放射性物質が流れる方向に逃げることになる
当時の国の拡散予測図
女性が避難したルート(水色の線)
避難中の女性: こんな子にハンカチを口にあてても死んでしまう。大丈夫だといわれても
内部被爆しちゃった分はどうなるの?この子が大きくなったときにどうするの?と思う
17時30分 2号機,3号機のベント操作の準備を開始するよう吉田所長が指示
19時04分 1号機の海水注入を開始
20時32分 菅総理が水素爆発の事実とそれに伴う避難要請の会見を発表
この時既に爆発から5時間が経過
避難指示区域は次々に3キロ10キロ20キロと拡大。
但し安全な避難ルートや身を守る方法などは十分には伝えられなかった
官房副長官 福山: 現実に我々自身もそのときの状況は情報が錯綜していた。
一体どういった事象なのかと特定できないで議論をしていたので、そこは我々も住民の皆様に
大変ご迷惑とご心配をかけた。
いろいろなところで政府の対応には至らないところがあったと思う。
21時過ぎ 菅総理が大学時代の友人、日比野靖氏を官邸に呼びつけ、
内閣官房参与に任命する
情報通信の専門家である日比野氏に対して、科学者としての助言を菅総理は求めた
それが総理の一番の不安要因だったと思う
連携に不安を募らせた菅総理は外部の意見に頼るようになり、本来連携すべき組織がそれぞれの役割を
果たさなくなる
保安院長 寺坂: 既成の体系の中で十分な準備がなかった。今回のような緊急事態にどのような対応が
できるのかもう一度しっかり考え直さなければならないと思っている