ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

地震から逃れられない国(5)

(4)のつづき

我が家が地震で苦労したのは結局は水だけであった。他のライフラインの復活は早かった。
職場が大阪だったので、同じ震災の被害にあった同僚に協力してもらって、車で大量の水をポリバケツなどに入れて運んだりした。
弟とおかんは震災直後、自宅から60キロ離れた京都の祖父のとこまで洗濯をしに車で行ったこともあった。
うちの団地はエレベーターがないので、重い水を5階まで持ち運ぶのは一苦労だったが、他の震災の被害に遭われた方々の苦労に比べればこんなものは微々たるものだろう。
数週間そのような生活が続いたが、神戸の方のことを思うと当時さほど苦痛とは思わなかった。


僕が最後に語らせてもらいたいのは地震発生(1月17日)から2週間が経った30、31日に神戸に行ったときの話である。
下の画像を見てもらえればわかるが、芦屋~神戸の市街地・住宅街は北の六甲山系と南の海に挟まれる形で東西に延びる。

イメージ 1

余談だが、夜、六甲から神戸の街を見下ろしたときの景色が「百万ドルの夜景」といわれるのは漆黒の海と街の光るネオンとの対比があってこそで(函館も同様)、それだけ山から海までの距離が短いということになる。
全然震災と関係ありませんが、ここで神戸の夜景を。(クリックすると原寸大で見れます)

イメージ 2
http://kobe-tom.maxs.jp/top.htm (←神戸を中心とした素晴らしい写真がいっぱいあるのでご覧ください)

この地形が震災のときに仇となる。
高速が使えなくなったため、陸路は2号線、43号線と東西に延びるわずかな国道しか殆ど使えず、救援物等の搬入等で大渋滞を引き起こしたのだ。それ故、それらの道路は一般の使用は厳しく制限された。海路も大きな港湾は破壊されたので、物資の搬入も困難だったと思われる。

仕事の関係で二日間(何れも日帰り)連続で神戸に行くことになった僕は、車で大阪から神戸に侵入するのはとてもじゃないが無理なので、初日はポンポン船みたいなのをつかって海から神戸にはいり、二日目は運行している西宮まで電車で行って、そこから数十キロをレンタル自転車を使って神戸に向かって走った。

初日の海路から神戸への侵入は、神戸の一部の街の状態しか目にすることができなかったわけだが、二日目の西宮~神戸の走破は、自転車をこぎながらの陸路なので、その間の震災地の様子を目にすることとなった。
当然ながら神戸に進むにつれ、被害状況は悲惨を極めた。

(4)で掲載した600mに渡って倒壊した高速道路、その脇を自転車で通り過ぎたのだが、31日時点で既に残がいは跡形もなく消えていた。全くの更地の状態である。
あれだけの構造物をよくたった2週間で処分したものだとこれには本当に驚いた。
聞くところによると、あの高速道路はわずか10日間で完全に撤去したそうだ。
あまりの速さに日本のコンクリート構造物神話崩壊の象徴、つまり恥の象徴だった故に急いで撤去したのかとさえ勘ぐりたくもなる。
結局、この迅速な処分のせいで、倒壊の原因を調べる資料として重要なこれら残がいが殆ど保管されてないことが後にわかり、倒壊の解明への貴重な道筋を絶たれる事となる。

(6)につづく