ROCK CD & DVD BUYER'S GUIDE III

一応、風景写真がメインです

京都島原・消えた花街と角屋の新緑

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上の写真は下京区の大宮五条あたりにある私の生まれた場所、島原の街並みです。
京都も2~30年前まではこういう京都独特の家屋が並んでいたんですが、今やめっきり減って、普通の建売りやマンションが増えました。
まぁ時代の流れなんで、しゃーないですわな。

さて、その島原というとこなんですが、実は意外な旧跡というか名所だったことを今回初めて知りました。

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島原大門というのがあります。
亡くなった祖父母の家がすぐ傍にあったのにこんな門があることすら知りませんでした。
ここから中に入ったエリアが実は「花街のひとつ」だったらしいんですな。

「花街」ってのは歌舞音曲を伴う遊宴の町のことでして、まぁ今の京都でいうとこの舞妓さんや芸妓さんと遊ぶ町ですな。
現在京都の祇園界隈には5つの花街があるんですが(五花街=祇園甲部、宮川町、祇園東、上七軒先斗町)、昔・・といっても1976年と結構つい最近なんですが、それまでは「六花街」と言われ、そのひとつがこの島原だったんだそうです。

門の周辺にも普通の一戸建てがあるように、この周辺は普通の住宅街なんでホンマこれはびっくりです。祇園の繁華街とは程遠い雰囲気なので。
もちろん、花街として廃れた原因はその立地条件であることは言うまでもありませんわな。

今も昔も・・京都の中心地で一番の繁華街は四条河原町であり祇園です。
祇園から私が生まれた島原までは3.5キロほどあるので、歩いて一時間くらいはかかります。明らかに地理的に不利で、車のない時代に祇園で遊んでた人たちが島原まで来ようと思えば一苦労です。

江戸時代以前はまだ京都には公家や武家がいたので地理的不利にも堪えられる需要があったようですが、明治以降、東京に都が移ってからはドンドン衰退していったようです。

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そして今も花街の名残として残っているのがこの「角屋」です。
揚屋」と呼ばれる店の形態だったようですが、この角屋の現在の主人が強く否定するのは吉原みたいな遊郭ではないとのこと。
あくまで今の京都の「お茶屋」に近いものであって、太夫(今の芸舞妓さんみたいなもので最高位の遊女)を置屋から派遣してもらって、客は飲食をしながらこの太夫と遊ぶ場だったいうこと。
建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造がこの角屋なんだそうです。

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現在は「揚屋」としての営業はしてませんが、観光施設として公開されてます。

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二階建てなんですが、1階だけを観る場合は時間内であれば1000円の入場料で自由に拝観できて撮影も展示物以外は可能です。しかし、2階に上がる場合は事前の予約が必要で別料金800円が発生し、2階での撮影は一切NGです。

撮影ができんので私は当然1階のみを観覧。

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幕末には西郷隆盛久坂玄瑞新撰組も出入りしていたらしいのですが、ごらんのように「新選組の刀傷」というのも残ってます。
あんまり新選組とか幕末とかにワタシは興味ないんで、特に感慨もありませんが。

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揚屋」と「お茶屋」の違いは大規模の宴席に対応できる台所があるかないからしい。
ご覧のように揚屋には台所があります。

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食料を冷蔵するところ。

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箱階段。

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廊下の奥が一番の大広間です。

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幕末の志士たちが宴会を開いてた四十三畳の大広間である「松の間」。
上の写真の左手が庭に面しているのでそっちの方向を撮りたかったのですが、残念ながら観光客が邪魔でムリでした。

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松の間に面した広大な庭。
島原が衰退していく時にこの角屋も祇園への移築を考えたらしいんですが、これだけの広大な土地は当時の祇園においてもなく、断念した経緯があったようです。

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(2015/05/31)

しかし自分が生まれた町でこれまでの何百回と来てるにも関わらず、すぐ近所に花街の名残があったとは、まだまだ京都にはワタシの知らない名所が多いようですなぁ。